
山梨県の山あいに、住民の54%が外国人という団地がある。約30年前に日本が積極的に日系ブラジル人の受けいれを始めたのをきっかけに、徐々にこの地で暮らすブラジル人が増えた。この間、国籍や習慣が異なる住民たちは様々な問題を抱えながら、どのように共生の糸をつないできたのだろうか。 【写真】住民の半分が外国人、山王団地の光景 片面に日本語、反対側にポルトガル語が書かれた団地の「自治会だより」がパイプいすの上に置かれていた。役員会に出席した12人が1枚ずつ手に取る。最後列に並んで座ったのが日系ブラジル人女性の3人の組長。数世帯ごとでつくる組のまとめ役だ。その隣にパーカーを着た男性が立ち、ときどきポルトガル語でささやく声が聞こえた。 10月下旬の夜、山梨県中央市の県営「山王団地」で開かれた自治会の役員会を訪ねた。200人を超す住人のうち半数以上が日系人を中心とした外国人。日本的な組織の代表例にも挙げられる自治会には外国人も参加している。
男性は日系ブラジル人の志垣パウロさん(34)。日本語が堪能で、5年前まで自治会の「外国人代表」の役職にあった。団地から引っ越して辞めたが、後任が見つからなかった。いまもわずかな報酬で自治会の文書を翻訳し、毎月の役員会にも通訳として出席。外国人とのトラブルがあれば駆けつけ、日本人との間を取り持つ。「団地がふるさとみたいになった。誰もやる人がいないなら、僕がやらないといけない」 日本に日系ブラジル人が増えた始めたのは1990年代。出入国管理法の改正により日系2世や3世らの就労が認められ、南米から多くの人が出稼ぎに来た。近年の日本への労働移民の先駆けと言える。 志垣さんは5歳の頃、日系2世の父に続いて家族とともに来日。最初に山王団地で暮らしたのは13歳の時だ。周辺には食品工場などの働き口があった。まだ外国人は少なく、両親らが日本のルールを守ろうと努力していた姿が記憶に残っている。「日本語も覚え、なんとか日本になじまなきゃという気持ちが強かった」 そんな関係に亀裂が生まれたのは2008年のリーマン・ショック後だ。多くの日系人が失業し、日本政府が費用を支給して帰国を後押しした。代わりに再入国が制限され、「よそ者を切るのか」といった反発が生まれた。
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