5歳で母を亡くし、「みなしごなの…」と泣きながら空想した家出物語。渡航が自由化されていないなか、移民として渡ったあの国のこと。角野栄子さんが作家デビューするまでの出来事を聞きました。
《東京・深川で、質屋を営む家に生まれた。5歳の時、母親が病気で亡くなった》
3歳上の姉と3歳下の弟がいたんですけど、弟はまだ2歳になっていなかった。私も小さくて、母の記憶はほとんどないんです。聞いた話だと、ちょっと新しがりやだったみたい。
拡大する母のひざに抱かれる、赤ん坊のころの角野さん=本人提供
昭和の初めだけど、うちでフランス料理みたいなのを作ってみたり、洋服をあつらえるときもこだわってみたり。
記憶がないから、母のことを想像して、それに当てはめて考えてしまうことはあるわね。「こういうとき、母はどんな言葉をかけてくれるかしら」って。でもそれは、自分が作り上げたイメージみたいなものね。
《幼くして出あった「死」は、心の深くに刻み込まれた》
子ども心に、死は年を取ってから来るものだと思ってるじゃない? なのに、若い母が、突然死んでしまった。ということは、父も、姉弟も、私だって死ぬかもしれない。死がいつ来るかわからない、その恐ろしさ、おびえみたいなものを抱えていました。
だけど、そんなこと言葉で表現できないから、なにかというとめそめそ泣いていたのね。周りも「また泣いてるよ」って言って、放っておかれるわけ。しょうがないから、私は自分で、泣きながらいろんなことを考えた。
みんな私のことを泣き虫としか言わない。もうこんなうち、家出するんだ、って。外へ出ると、優しいおじさんとおばさんに「おうちはどこ?」って聞かれて、「みなしごなの」って言ったら、「うちにいらっしゃい」って言ってくれるかな、とかね。
《そんな物語を考えていると、だんだんと涙が乾いていった》
物語というのは、やっぱり元気をくれるのね。あのとき私が考えていた家出物語は、物語の基本だったと、今になって思う。本は、扉を開いて、自分がいる世界から違う世界へ出て行くわけですよね。それは、家出とおんなじなんじゃないかしら。
《幼い角野さんをひざにのせて、父は昔話を語ってくれた》
母親に先立たれた子どもたちのために、何かしなくちゃと思ったのがそもそもだと思うのね。話すときに父は、いろんなオノマトペを使って話してくれた。桃太郎だったら、「川上から大きな桃が、『どんぶらこっこーう、すっこっこーう』」というふうに。
普段の生活の中でも、意味はないんだけど「ちこたんちこたん、ぷいぷい、ちこたん」と言ってみたり、廊下の向こうから「やっこさんだよ」と出てきたり。そういう言葉遊びをよくしていました。
父は江戸っ子だったので、話し言葉が面白かった。落語や講談もラジオで聴いていたので、それもリズムとして入っていたんでしょう。父の言葉の響きは、今も私の中に生きています。
「弟は最初、父だと気付かなかった」
《実母の死の翌年、父が再婚。新しい母が家に来た。太平洋戦争が始まる1941年のことだ》
お見合いでしたから、知らない人が突然現れたような気がしました。
しかも父は、すぐ出征してし…
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